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三浦按針について

第2回 徳川家康とウィリアム・アダムズ(2009.9.6公開)

リーフデ号が漂着した臼杵市佐志生(さしう)の浜と黒島 リーフデ号が漂着した臼杵市佐志生(さしう)の浜と黒島  リーフデ号が日本へ到着したのは、1600年4月19日でした。これは西洋の旧暦の日付であり、新暦では4月29日、和暦では慶長5年3月16日となります。日本では関ヶ原の戦いの半年ほど前のことでした。
 漂着から9日目、大坂城にいた徳川家康からの使者が来て、船の代表者が家康の元へ連れて行かれることになりました。船長のヤコブ・クワケルナックが療病中であったため、代わりにアダムズが使者とともに大坂城へ向かいました。  家康のアダムズに対する尋問は40日にも及びました。アダムズは、持ち合わせた海図を広げて、イギリスのことや船の経路を話し、貿易によって親善関係を結ぼうと望んでいることなどを話しました。

リーフデ号ほか4隻の商船団 リーフデ号は右下(国際交流基金所蔵『De uitreeding en de scheepstocht』より) リーフデ号ほか4隻の商船団 リーフデ号は右下
(国際交流基金所蔵『De uitreeding en de scheepstocht』より)
 この間に、イギリスのプロテスタント教徒であるアダムズに対して、すでに日本と貿易をしていたポルトガルやスペインのカトリック教徒の人々からの誹謗中傷が数多く家康の元に寄せられました。しかし、尋問を通じてアダムズに好感を持った家康はそれには耳を貸さず、アダムズとの間に友好的な関係が築かれていきました。
 尋問が終わって解放された時、リーフデ号は堺港に曳航されていましたが、積み荷のほとんどは略奪されたり、乗組員が売りさばいたりしてしまい、アダムズは着替えもないような状態でした。これを哀れんだ家康は、盗まれた荷物が手元に戻るよう手配し、さらに5万レアールの銀貨を与えました。
 その後、家康はリーフデ号を領地である浦賀へ回航するように命じましたが、この途中で嵐に遭い、浦賀へ着いた時には修理ができるような状態ではなかったといわれています。

※レアールは当時のスペインの通貨単位

静岡県伊東市にあるアダムズの胸像 静岡県伊東市にあるアダムズの胸像  リーフデ号を浦賀へ回航させたのは、積んでいた20門近い大砲を陸上げし、会津の上杉景勝との戦いで使用するためでした。さらに家康は、乗組員も江戸に入れ、この戦いに参加させたといわれています。
 この話について『相中留恩記略』には、アダムズが「砲術の妙を得、その術を諸士に相伝す」とあり、これによって家康に拝謁し、逸見に領地をもらうことになったと記されています。
 しかし、家康が逸見に領地を与えたのは、アダムズの砲術の腕前だけでなく、アダムズが話す世界情勢や科学の進歩の状況などが、新たな国造りを目指した家康に役立ったからでした。
 アダムズが家康に重んじられることに対して危機感を増したカトリック系の人々は、アダムズがいかに危険な人物であるかを吹聴し、場合によっては殺害することまで考えていました。

リーフデ号の航路 東照大納言像(徳川家康像)
(財団法人 徳川記念財団蔵)
 しかし、家康の態度がまったく変わらないことが分かると、カトリック系の人々は、今度はアダムズに改宗を勧めました。
 アダムズの手紙に記されたこんな話があります。アダムズにカトリックの偉大な力を示そうと、改宗を勧める熱狂的な信者が「水の上を歩いてみせる」と言い、浦賀で実験することになりましたが、結局おぼれてしまい、アダムズは浦賀の人々とともに大笑いしたそうです。
 さまざまな手段を使ってアダムズを陥れようとしたカトリック系の人々でしたが、どのような状況になっても、家康のアダムズに対する信頼が変わらないことを知ると、手のひらを返すようにアダムズに取り入り、家康に好意的な印象を持ってもらうことを託すようになりました。こうして、アダムズは家康の外交顧問としての地位を確実なものとしていきました。

『三浦按針と横須賀』(横須賀市企画調整部文化振興課)より