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三浦按針について

第3回 逸見と浦賀とウィリアム・アダムズ(2009.10.25公開)

『相中留恩記略』に描かれた逸見村の様子(藤沢市文書館所蔵) 『相中留恩記略』に描かれた逸見村の様子(藤沢市文書館所蔵)  ある時、家康はアダムズに洋式船の建造を頼みました。アダムズは少年期にディギンズから造船を学びましたが、実際に造ったことはありませんでした。それでも家康の命令ですから、リーフデ号の船大工ペーター・ヤンスゾーンに全面的に手伝ってもらい、そこに幕府の船手頭向井将監(ふなてがしら むかいしょうげん)の船大工も加わり、伊豆の伊東で80トンの洋式船を完成させました。
 これを見た家康はすぐに、さらに大きな船の建造を命じ、アダムズは120トンの船を完成させました。この船は、スペイン領の総督であったドン・ロドリコの乗った船が千葉の御宿(おんじゅく)で難破してしまい、その代わりの船として使われました。この時受けた恩義のお礼として、スペイン領メキシコと日本の貿易が本格的になり、さらに、スペインからの初めての使節としてセバスチャン・ビスカイノが浦賀へ派遣されました。

日本橋にある三浦按針屋敷跡の記念碑 日本橋にある
三浦按針屋敷跡の記念碑
 家康の外交顧問になったアダムズは、江戸の日本橋近くに屋敷を構え、「青い目の侍」が誕生しました。領地は逸見村で村高220石とも250石とも言われ、家数は90戸ばかりでした。三浦に領地を拝領したので、青い目の侍は「三浦」の姓を名乗り、名前は仕事であった水先案内人を意味する「按針」をとって「三浦按針」となりました。
 イギリス商館長リチャード・コックスの書いた日記には、逸見でアダムズが抱える家来として「80から90名の作男(さくおとこ)」がおり、外国人に与えられたのは初めてであることも記されていました。また、逸見の屋敷は浄土寺の南にあったと『新編相模国風土記稿(しんぺんさがみのくにふどきこう)』には書かれています。
 なぜ家康が逸見に領地を与えたのかについては諸説ありますが、浦賀が東日本唯一の貿易港となっていたことに関係していることは間違いないでしょう。浦賀にも「アンジン屋敷」と伝えられている所がありますので、アダムズは浦賀と逸見を往復していたのではないでしょうか。

『相中留恩記略』に描かれた浦賀の様子(藤沢市文書館所蔵) 『相中留恩記略』に描かれた浦賀の様子(藤沢市文書館所蔵)  浦賀は家康が目指した貿易港となり、スペイン船が何度か来航していました。宗派が違うスペイン船への対応も分け隔てなく行っていたアダムズですが、本当はスペイン船ではなく、イギリス船の到着を待っていたことと思います。こうした心境のアダムズを慰めたのは、三浦按針になってから結婚をした妻【江戸の町名主(なぬし)・馬込勘解由(まごめかげゆ)の娘といわれている】と二人の子ども、さらには逸見の村人の存在ではなかったのでしょうか。
 アダムズに帰国のチャンスが来ました。1613(慶長18)年、イギリス国王の親書を携えた使節のジョン・セーリスが平戸へやって来ました。イギリスではアダムズの日本での活躍ぶりが伝わっており、日英関係の成否はアダムズにかかっていることをセーリスも承知していました。しかし、二人の仲はうまくいきません。セーリスはあまりに日本人びいきのアダムズが気に入らなかったのです。

アダムズの屋敷跡とされる鹿島神社 アダムズの屋敷跡とされる鹿島神社  アダムズにしてみれば、過去にスペインからの使者として来たビスカイノの傍若無人な振る舞いが家康の怒りを買い、貿易どころか全ての交渉が水の泡になったことがあり、その二の舞にならないよう、どうしても日本側寄りにならざるをえませんでした。
 それでも将軍秀忠に会うために江戸へ来たセーリスは、アダムズに薦められた浦賀港を見て「船舶にとって申し分ない港だ。ロンドンの町を流れるテムズ川のように、船が安全に航行できるであろう」と褒めています。
 しかし、この後も二人の仲は修復できず、アダムズはセーリスからの帰国の誘いを断ってしまいます。

『三浦按針と横須賀』(横須賀市企画調整部文化振興課)より